会員インタビュー - フリージア・ナース ブログ

フリージア・ナースの会
成熟した看護の未来に向かって組織的に行う社会貢献活動です
2017年06月08日 [会員インタビュー]
NPO法人看護職キャリアサポート 濱田安岐子
インタビューを受けて頂いた方 坂本眞美さん(現国際医療福祉大学福岡看護学部教授、福岡県看護協会理事、高邦会総看護部長)

坂本眞美さんの略歴
福岡県出身、看護学校卒業後、福岡大学病院で看護師として就職、その間、福岡大学を卒業し、福岡大学病院の看護部長就任、その後、国際医療福祉大学で九州地区生涯教育センター設立に従事し、現在は、国際医療福祉大学教授、医療法人高邦会・社会福祉法人高邦会総看護部長、日本手術医学会理事、福岡県看護協会理事に就任、現在に至る。

今回のインタビューは坂本眞美さんにご協力いただきました。坂本さんは、大学教授、看護管理者、学会理事、看護協会理事としてご活躍頂いているスーパーウーマンです。このようなスーパーウーマンになるまでの歩みをお話しいただきました。

不思議なご縁で看護師に

濱田安岐子(以下濱田):まず坂本さんが最初に看護師になろうと思ったことから教えてください!
坂本眞美(以下坂本):私は家庭環境が影響しています。なんか自分で自叙伝書けるぐらいある(笑)。家庭の事情で、私は祖母に育てられました。祖母が母親だと思っていました。
濱田:そうですか。いろいろと複雑なことがあったのですね。
坂本:そうなんです。祖母と一緒に住んでいた対馬には高校がなかった。高校に行こうと思ったら隣の町で下宿しなければならなかった。でも、経済的問題で難しかったのです。当時は、そうすると集団就職しかなかったのね。でも、祖母が私を不憫に思ったのでしょう、京都にいた叔母に頼んで、私を高校に行くために京都に行かせてくれました。しかし、京都では、田舎からポンと行って偏差値の高い進学校の公立高校に受かるようなレベルではない。でも、私学には行けない。何故だか解らないけど、看護師になる事の選択が頭にあり、相談していた担任の先生が紹介してくれた全寮制の国立奈良療養所准看護学院に行きました。
濱田:不思議なご縁ですね。
坂本:そうです。奈良の入試面接時に学院長であった病院長が、2年間で准看看護師になりその後みんな奈良県立奈良高校の定時制で学び、高等看護学校という進学コースに行けるって言って、みんなそういうふうにして看護師になっていると教えられました。
濱田:そのころの看護師の学び方だったのですね。
坂本:そう、そうして看護師になりました。そして、3年働いた間で2年分の学費をためて、兵庫県三田市の進学コースへ入学したら、ちょうど、福岡大学病院が新設となり職員募集をしていたので、奨学金をもらい学費の足しにできました。学校まで採用募集に来てくださった看護部長の人柄や容姿がとてもかっこよく看護部長の話に大学病院に憧れを持ちました。福岡にも帰りたかったしね。新設の大学病院で特別室の病棟に配属されました。とにかく初めはみんなが新人だったから、先輩・後輩もなく、ワイワイとやっていましたよ。生意気だったと思います。子供のころから何となく気が付いたら、どこに行っても姉御のような感じでした(笑)准看護師学校時代も入学・卒業で総代挨拶とかしたのだからか、クラスの数人が先輩に呼び出し事件とかあったみたいですが、先輩たちも私には何も言えなかったみたい(笑)
濱田:学生のころからそんな感じだったのですね!
坂本:小さいころから経済的も苦労したから、精神的にも自立していたと思う。なってしまってから逆にこの仕事がすごく自分に合っていたのだと思います。小さいときから周り人達に私と祖母とが支えられてたり、助けられて生きてきて、今がある。看護の仕事は、その人たちにご恩が返せると思っているんです。
濱田:看護の仕事を通してお世話になった人に恩返しをしているということなのですね。
坂本:そうですね。人は一人で生きてない、やっぱり私が今ここにあるのは、両親の離婚で親には育てられなかったけれど、離婚せずに親元で育っていたら、今の私はどうなっていたかなって…今の私のほうが幸せかもしれないって思えた。ここに来るまでに本当にいろんな人たちに支えられて、私の知らないところで祖母を支えた人もいるだろうし、私が今ここに立っている時もいろんな人たちの支えで生きている。その不特定多数の人にご恩を返すといったら、この看護の仕事はできるんですよ。だから看護から離れない。この仕事をしている理由なのです。

看護を教えてくれたのは患者でした

濱田:そういうことって、いつぐらいに分かったのですか?
坂本:20歳代の時だったと思いますよ。
濱田:早いですね!
坂本:実は特別室で看護をしていた時に、19歳の女の子がスキルス性胃がんで入院してきたんです。そして、1月15日の成人式で20歳になって、1月25日に亡くなったんです。その時、不思議なことがあって、こんなことはないのですけど、その患者さんが明け方亡くなった日の日勤に寝坊してしまった。病棟からの電話で起きて、びっくりして化粧もせずに道具を抱えて病棟に走っていったんです。普通は病棟に化粧道具なんてもっていかないのですけど、急いでいたから。そうしたら、その時にまだエンゼルセットに化粧品とかがなかったのです。女の人が亡くなっても化粧していなかったのです。だけど20歳の女の子だから、化粧してあげたいとみんなで話していたら、「私、持ってきています」ってなって、私の化粧品を使って化粧をしたのです。そうしたら、娘の葬儀に私を出席させてほしいと師長にお父様から依頼があって出席しました。後日お父様からお手紙を頂きました。若くて何も出来ていなかった筈ですが、同じ年代で娘がとても嬉しそうだったと。だから私が来ることによって娘さんが笑顔になり、どれだけ助けられたということが書かれていたのです。
濱田:そうでしたか。存在に助けられていたのでしょうね。
坂本:私は全然意識もしてなくて、そういうふうにご家族が思って下さったっていうことが、今度はそれが私の支えになったのです。看護の「か」の字さえ分かってないときに、「なんで19歳で」「なんでこんな病気なんだろう」とかいろんなことは思いながら、関わっていたのだと思うんですよ。すべてが終わった後、その手紙はずっと大事に持ちながら、「私このままの、私のこの姿勢で仕事を続けていっていいんだ」っていうことに気づきました。
濱田:そういう体験は大事ですね。
坂本:なので、決して辞めたいとも思わなかった。
濱田:患者さんに支えられて看護を継続できたのですね。

生涯看護師として働き続けるためのライフプランです

坂本:そんなふうな気持ちで仕事をしていたから、結婚もせずに生涯看護師をするのかと思っていたのに結婚しましたよ!でもね、夫は、初めは、仕事を辞めてほしいって言ったんです。だから、「申し訳ないけど、仕事か結婚かって言われたら、私はそんなに結婚にものすごくウエイトを置いてるわけじゃないし、あなたと結婚するために仕事を辞めるかって言われたら私は仕事を辞めんよ。結婚よりは仕事を取る!」みたいなことを私は言ったんです。
濱田:かっこいい!
坂本:だから、「ただ、働いてもらわんと困るっていうよりも、辞めたいときにいつでも辞めていいよって言って、仕事させてもらっとってはいかんやろうか」と言ったんです。
濱田:交渉ですね(笑)!
坂本:そうそう。そしたら面目を保ってOKだった。そうしたら結婚も断れないわけで。学生のころ、教務主任が、「看護師という仕事は、結婚をしたから、子どもが生まれたからといって辞める仕事ではありません。資格を持って、ずっと生涯、仕事をする。」言われた。そんな言葉がなんとなく自分では素直に受け取っていたのですね。それからずっと看護師として働いていますよ。嫌われているのかと思うくらいに異動ばかり命じられていました。1年半から3年ぐらいで8カ所異動しました。しかし、材料部と手術部では長く管理をしました。


仕事の価値を創った看護管理の経験

坂本:実は材料部への異動について通常の異動辞令は1か月ぐらい前なのに、材料部の新築移転計画と、物流センター構想の立ち上げ計画などで、半年ぐらい前に内示をもらった。「なんで私が材料部?!」と行くか辞めるか、内示は他言できないし就職後初めての辛く苦しい経験でした。

濱田:大変なことだったのですね。
坂本:そうなのです。そして配属になったら、未開拓域じゃないですか、「心臓外科の師長からサプライの師長!」と少しネガティブにも思いながらのスタートでした。新しい中央材料部の設計もしなければならなかった。でも事務部門が本当によく助けてくれて、全面的に私の考えをバックアップしてくれました。なにも知らない私に施設レイアウトから機器導入まで好きにして良いと任せてもらえた。材料部への異動は私の進むべき道を大きく変化させ、思いもかけない人たちに出会いそして今に繋がった・・・・この異動が無ければ今は無かったかも。
濱田:すべて坂本さんが作ったのですね!
坂本:そしていよいよ材料部へ着任し、作業現場に入るのに作業衣に着替えようとしたら、あちらこちらが破れの補修をされたものばかり、そんな作業衣を来ているスタッフを見て涙が出ました。これではやる気も出ないだろうと、まずは作業着の交換から始めましたよ。
濱田:そうですよね!
坂本:それから、材料部の仕事へのこだわり方として、ケッテルの中のガーゼの向きにも意味があるなど、その理屈を主任が説明してくれた。でも、使用する側の病棟では、なにも考えていなかったことに気づきました。こだわっていても意味がないのなら、意味のあることだけ実施しましょうと、業務を改善していきました。
濱田:私も業務改善大好きです(笑)
坂本:そう(笑)!そして、ユニフォームを変え、この仕事がどれだけ大事かってプライド持ってもらい、福岡大学は材料部が支えているって分かるように、縁の下を支えたいって言ったのです。自分がそこで仕事をする価値をどうつくるかってことを考えないといけない。だって私がここで仕事をして、私にとってここで生き生きと働くためには、私が自分自身でこの仕事の価値を見いださない限りはできないわけだから、それは自分で価値をつくるしかない!
濱田:そういうところが坂本さんの凄さですね!
坂本:たまたまその時、外科病棟の看護師長たちが私の友人たちだったのですね。彼女たちが私の業務改善について支えてくれて、助けてもらったことで、あまり苦労せずに言いたいことを言いながら仕事をしてきた。材料部で多くの人に支えられながら、実現できる仕事を体験しました。そこで、やっとそういうことに気づいたのです。
濱田:いい体験だったのですね。
坂本:そうです。時間管理の改善についての事例です。材料部では「作業を全て終わらせて帰る」というルールがあり、一部の業務に決まった超過勤務がありました。しかし、その作業を明日の朝からやっても支障もなく、一部の人しか出来ないとしていた機械操作も出来る人を増やせばよい。仕事の残し方を考え、資格者を増やし残業0の職場としました。停学になっていた残業代が減るのですが、組織は無駄な時間外労働はさせませんとはっきりと伝えました。
濱田:そういうぶれない指導が必要なのですね。
坂本:そうかもね(笑)看護部長からは、カチッとしすぎている「100%で臨まず隙を作ることも大事だ」って言われたことがありました。アドバイスを受け入れて自分を変えるのは簡単なことではなく、それまでの人生経験も大きく影響していると思うのよ。

第7回
これからの人材育成

濱田:そうなんですね。坂本さんの今後のプランはなにかお考えですか?
坂本:65歳になったので、完全に引いてしまうのは…私もいくら趣味をといったって、毎日趣味で生きていないから(笑)。まずは、67歳にどうするかを考えて、主人も70歳になるので、体の自由がきく間に、私生活で楽しみながらと思ってたんです。ちょうどあと3年で関わってきた病院が10周年になるから、私も総仕上げと思って、その頃までには働いている看護職の一人ひとりにある程度のプライドが築けて、そして自分たちの立ち位置を明確にして明るく楽しく、ワクワク生き生きと、働いてくれる人たちになればいいかなと思ってる。今それの下準備として、みんなにそう思ってもらえるようにしなくちゃと思って。
濱田:いいですね。
坂本:看護師は素直といえば素直な職種なので、そこにこういう自分たちの価値を認めるようなことだとか、自分たちの考え一つでどうでもなるんだよ、みたいな。きついとかじゃなくて、やりがいにつながるようなことを認める、というふうな形の言葉かけをしていくことで楽しく働いていければいいので、戦略的にはそういうふうな役割を果たせたらと今ちょっと狙ってるんですけど。
看護部長を異動させたくて、副部長に「あなたが看護部長でしょ」と言ったら、「とんでもありません」って少し待ってほしいと言われた。「だったらなんで副部長引き受けたの?」って。病院が若いからでしょうね、組織の充実にはある程度の時間はかかる。一気に管理者って育たないから、最初の構築の時は、ポストにそれなりの人を連れてくることはどこでもするけども、どのくらいの時期まで外からの助けを借りて、あとは自分たちで回っていくかを考えるようにしないといけないし、だからここの中で副部長に登用されたら、当然「次は自分だ」と思わんといけないと思ってますが、なかなか…。他から連れてきてたじゃないですかって…。
濱田:責任あるポストに就きたがらないのですね。やりがいを感じられないんじゃないでしょうか。
坂本:「あなた看護部長って何をせんといけんと思ってる?」って、看護部長の仕事は大変じゃなくて、看護部長は責任だけ取って、他の仕事は全部他にさせればいいってね。極端な話、自分が信頼した人がしたことを、何をしてるのかだけは知っていなければならないけど、したことは誰がしようとそうそう大きく変わらないからね。能力無いと思わずにさせるしかないんだよって。
濱田:そうなんですね。自分の上にいる人がすごく楽しそうに見えてないと、なかなかそうなりたいと思えないですよね。
坂本:師長たちが疲弊してしまって、師長自身が憧れの対象になってないと。
濱田:本当…残念ですよね。
坂本:そうなんですよ。みんな他力本願で、自分がしてないのに「人材育成」ができるわけないって。あなたは人に尊敬されてるけど、師長として認められてる? 師長として認められてるのだったら、あなたは自分の代わりを誰だったらできるの? 代わりを探してる? そしてあなたは今ここで何しようと思ってるって。そして、それは今のこの部署でしかできんの、どのくらい居たらできるのって。その後はどうするのってね。そういうことを考えて、それが達成できたら、どこでも他の部署に行っていいのね、行きたい部署はあるの? なかったらどこでもいいね。と伝えて、この仕組みを頭にインプットさせて、だから「自分がずっとここにいたら、あなたの下にいる主任さんは、ずっと師長になれんよね」ぐらいのことを認識してもらわないとね。だから、人材育成って「私の代わりはあの人がいます」って言えさせしたらいいんですよ。
濱田:そうですよね。自分がいなくてもどうにかなる。
坂本:でしょ。だからそれをせずして、人材育成って私はあり得ないと思ってる。
濱田:そうですね。人材育成は、人を育てることなのだけど、看護の質を上げることとか、なんかそんなことを考えてる人いますね。
坂本:看護の質は、自分の看護観を語りもしなかったら伝わらないよね。当然、質が上がるための看護観であらねばならないが、私はこのように看護したいっていうことだけを示しとけば、それを浸透すれば質は上がるでしょう。
濱田:本当ですね。ところで、坂本さんは自分の次は、ちゃんと育ってるんですか。
坂本:今の私の仕事は、私への充て職として出来たポストだから。本当はいなくていいんです。
濱田:でもやる人がいなくなっちゃうでしょ。
坂本:今統括している6つの施設でそれぞれやれるようにと、遠方のグループ組織については、私が自然と退いてあなたが次をやってくれるといいんだけれどねっと、グループの中核病院の看護部長に意図的に言い続けている。
濱田:自然と退いても人は育っているということですよね! 今日はありがとうございました。

インタビューを終えて

フリージア・ナースの会の会員である坂本眞美さんは、現在も現役看護管理者で大活躍です。生涯現役看護師を体現している方だと実感しました。また、坂本さんに教えていただいた、「生き生きと働くためには自分で仕事の価値を創り続ける」という言葉にこれからの看護師のキャリアのキーワードになりそうな予感を感じました。これからも坂本さんには活躍していただきたいと思います!

2017年02月09日 [会員インタビュー]
NPO法人看護職キャリアサポート 濱田安岐子
インタビューを受けて頂いた方 清水嘉与子さん(日本訪問看護財団理事長 元参議院議員)

日本訪問看護財団 理事長/元・参議院議員
1958年東京大学医学部衛生看護学科卒業後、関東逓信病院で保健師・看護師長として10年間勤務。東京大学医学部保健学科助手を経て、厚生省看護課(保健婦係長、課長補佐・課長)で15年間看護行政に取り組む。1989年参議院議員(自民党比例)に当選後、看護をはじめ医療保健・福祉、環境問題などにかかわる。その後2期連続当選を重ね、この間労働政務次官、文教委員長、環境庁長官、少子高齢社会に関する調査会長を務める。2008年4月日本訪問看護振興財団理事長に、2009年5月国際看護交流協会理事長に就任。2009年6月から2013年7月まで日本看護連盟会長を務めた。

友達付き合いで受験したことがきっかけで看護師に?!

濱田:清水先生が国会議員としてご活躍されたことは看護師であれば誰でも知っていることなのだと思いますが、そもそも、看護師になられたのはどのようなきっかけからなのですか?
清水嘉与子さん(以下、清水・敬称略):私は、高校を卒業する時に「女性でも働くための資格を取りたい」と考えていました。学校の教師とかを考えていたのだけど、そのころの友達が看護師になりたいと言ったんです。それが国鉄の看護師なのだけど、国鉄の職員になるとどこに行くにも無料で電車に乗れるっていう理由でね(笑)、それが楽しそうで、一緒に受験しました。そうしたら、肝心の友達が落ちてしまい、私が受かっちゃったんです(笑)。私は付き合っただけだから、入学のための手続きをしませんでしたが、看護師もいいかなって思いました。そんな時、高校の先生が東京大学の看護学科の受験案内をしてくれたので、受けてみようと思ったんです。東京大学の看護学科は2回生で、まだ新しくて試験もやさしいかなとか思って(笑)。
濱田:東京大学を気軽に受けて受かっちゃうところがすごいですね!学生生活はどうだったのですか?
清水:楽しかったですよ!看護学科の5人でボート部を作って合宿したり、隅田川にボートを出したりと、楽しい大学生生活でした。
濱田:そうなのですね〜。看護の勉強の方はどうだったのですか?
清水:勉強の方は基礎医学は楽しかったけれど、看護学は余り興味が持てませんでした。でも、湯槇ます先生ほか、全国から集められた優秀な看護の先生方から教えていただいたんです。ただ、医師の講義と看護教員の講義の内容が重複しているなど、教育の内容に不満を持っていました。実習も東京大学医学部附属病院の分院で行い、病院の看護師たちは学生の教育にノータッチといったところがありましたね。衛生看護学科の誕生を歓迎する先生方ばかりではなく、学閥社会の中で看護を学ぶ環境はあまり良くなかったんです

保健指導は相談者から学んだ

清水:私は卒業した後、関東逓信病院で10年間保健師として働きました。当時は、大学を卒業すると保健師の資格まで取得できたのです。関東逓信病院は電電公社の病院で、その職員のための医療をしていました。病気を予防するための健康管理科を持っていて、保健師が配置されていたのです。本来は病気を治療する前に予防することが大事でしょう?だから、私は保健師としてそこで働くことにしたのです。そこで、素敵な婦長さんと出会いました。私は保健師の資格は持っていたけど、自信をもって保健指導はできないし、小児科を担当するように言われましたが、学問は知っていても何もできませんでした。だから、「大学に行って勉強したい」と言ったら、1週間に1回大学に戻って勉強する時間をくれたんです。
濱田:すごい!今では考えられませんよね。
清水:そうなんです。その婦長さんは私に学ぶチャンスをくれました。だけど、改めて医師の保健指導の仕方を見てみたらマニュアル通りでみんな一緒だったんです。人間には個別に生活があって、そこを改善しなければ指導にはなりません。だから、すぐにその勉強は卒業してしまいました。次に考えたのは、相談者であるお母さんや赤ちゃんに教わろうということです。相談者から教わろうと思って話を聞いていたら、みんな生活が違って、それぞれに合った指導を自分で勉強していきました。そうやって、私が指導できるようになるまで、婦長さんはずっと待っていてくれました。本当にいい婦長さんでしょ!
その後、婦長さんが東京都看護協会の保健師部会に参加するように推薦してくれたのです。そこでは、さまざまな人たちと情報交換ができて、とても勉強になり、私の視野は広がっていきました。婦長さんのおかげです。でも、そんな時、東京大学の金子みつ先生から大学に戻ってくるように声をかけられました。臨床も楽しかったから、とても悩みました。悩んだ末、大学に戻ったところ、大学紛争の時期と重なったのです。金子みつ先生の下で助手をしていましたが、教室は占拠され1年以上大学から追い出されました。後に、追い出した人が参議院議員になるのですが、私が参議院議員になってから「先生!私の事を教室から追い出したのよ!」と言って笑ったというエピソードもあります(笑)。
濱田:面白いめぐりあわせですね! でも、教育ができない状況で、先生は何をしていらしたのですか?
清水:学生が教育を拒否していましたからね…でも、細々と看護学教室での研究の仕事とか、看護協会の役員をしていたから、いろいろなところで仕事をしていました。それから、教員が集まって、これからのことや看護学をどうしていくか、どう認めさせていくかなどを話し合っていました。金子先生にしても湯槇先生にしても、東京大学では助教授までで教授にはなれませんでした。1952年に衛生看護学科は出来たのだけど、卒業生で1回生の見藤さん看護学初の教授になったのは、1985年でした。東京大学はそのころそういうところだったのです。結局2年間で東大の教員生活は終了して、厚生省に行くことになりました。

看護師冷遇の制度を変えた厚生省時代

濱田:清水先生は、臨床にいたころから、看護学の発展をどうしていけばいいか考えていたのですか?
清水:そんなこと、考えていませんでしたよ(笑)とにかく、学ぶチャンスがあれば、そこに行きたいと思っただけです。大学で看護の存在感がないなんて、思ってもいませんでしたからね。
濱田:金子みつ先生は、なぜ清水先生を大学に呼びもどしたのでしょうか?
清水:卒業生で臨床をしていたからでしょうね。他の同級生たちは臨床に携わっておらず、研究者とか行政に携わっていました。何といっても東京大学は卒業生でなければという思いあったのでしょうね
濱田:清水先生はなぜ臨床を選んだのですか?
清水:それは、たまたまです。友達のお父さんが電電公社に勤めていて、就職先を決める時に紹介してくれただけで、自分で探したわけではないのです。
濱田:たまたま!そうなのですね。
清水:そうなんです。みんな看護師や保健師の資格を持ってはいたけど、臨床の現場に就職した人は少なくて。今ではこの選択がよかったと思っています。そうでなければ、素敵な婦長さんにも出会わなかったし、今の私はありません。
濱田:厚生省では何をされたのですか?
清水:最初に行ったのは、看護師不足解消のための学校作りの調査でした。全国の実習病院を見て回ったのですが、看護師が専門職として遇されていない、看護師自身プライドを持って働いていない姿に本当にびっくりしました。現場で「看護師の退職を防ぐために処遇をよくしたらどうですか」と言ったこともありましたが、「いや、看護師は定着しなくていいのです。低い賃金で昇給する前に辞めてもらった方が都合がいい」と言われました。厚生省から来た私に対して、平気でこういうことを言う時代でした。
私はこれではダメだと思いました。でも、そのころの厚生省は医師のお手伝いをする看護師を増やすために教育制度を変えて、短期間で養成できる准看護師を増やそうという法案を出していました。私は看護協会の役員もし務めていて、准看護制度に反対していたので、複雑な思いで厚生省へ移ったのです。その法案は審議されず時間切れで廃案になりました。これが通っていたら大変なことになっていたでしょう。そしてその後、看護師を中心に確保対策を作ろうということになり、まず、看護職員需給計画を作ることから始めました。通らなかった法律のために予算が取ってあったので、その予算を厚生省管轄の看護師の養成所を作るために使いました。それから、看護師の病院内保育所を作るための補助金制度を作りました。さらに、潜在看護師の活用のために、ナースバンク事業を始めました。そういう今ある事業の土台を作っていったのです。
濱田:すごいですね!今の制度があるのは、清水先生が始めてくれたからですね!
清水:ほかにも、いろいろやりました。看護師の統計資料や看護六法を作ったのも私たちなんです。忙しかったんですよ〜!
濱田:え〜すごいことですけど、そんなに忙しくてプライベートはどうされていたのですか?
清水:プライベートなんてありませんでしたよ!法律や制度を作るためには夜遅くまで残って書類を作らなければなりませんでした。でも、厚生省の仲間と一緒に毎日、日の出と共に営業を始めるゴルフ場に行って、ゴルフをしてから仕事に行ったんです(笑)。結婚もしないで、青春をささげてしまいました(笑)。15年間で、課長までなりました。
濱田:先生、結婚されなかったこと後悔していませんか!
清水:う〜ん、なんとも言えませんね。いい人がいれば、今からでもいいんですよ(笑)。

恩師の一言で国会議員に

清水:厚生省にいても、行政は縦割りになっていたから、老人・母子・精神・障害者・・・みんな所管課があって、看護課だけではどうにもできませんでした。看護師がなれるのは課長まででしたから、限界を感じていました。でも、そのころ、看護師でもある石本茂先生が国会議員に再選され自民党に入られたのです。途端に、看護を支える議員がいっぱいでてきました。橋本龍太郎さんなんて本当によく支えてくれて、看護師の処遇をよくするために活躍してくれました。例えば、夜勤看護手当てです。そのころ夜勤看護手当ては350円でした。100円から始まって、50円くらいずつしか上がらなかった時代に、今の厚生労働大臣の塩崎恭久さんのお父さんである塩崎潤さんという国会議員が「10倍にしよう!」と叫んでくれたんです。その後、一気に夜勤手当が1000円まで上がりました。塩崎さんはこの後「夜勤の塩崎」って言われるようになったんですよ(笑)。看護の問題は大事なことですが、一番解決しにくいことでしたからね。看護の国会議員を応援してくれた人がたくさんいたんです。
濱田:それで、国会議員になったのですね。
清水:そうなんです。それで石本先生がそろそろご引退の時に次の人をという話になって、そのころ日本看護協会の会長をしていた大森文子先生が私に「国会議員になりなさい」って言ったのです。大森先生が東京大学の助手をしていた時に私が教わった経緯があって、私も「先生に言われたならやらなくちゃ」って思いました。
濱田:そういうつながりだったのですね。
清水:厚生省の15年の経験が、国会議員の時代に役に立ちました。
濱田:国会議員時代に一番充実感があった仕事は何ですか?
清水:看護の問題をとにかく解決しなければならなかったから、「看護問題小委員会」を作りました。普通は国会議員になったばかりで委員長にはなれないのですが、看護問題のことが分かるのは私しかいなかった上、党の社会部会長が「あなたが委員長を務めなさい」って言ってくれたので、メンバーを集めて勉強会始めました。そこで初めにやったことは「看護の日」を作る提案でした。
濱田:5月12日に看護の日は清水先生が作ったのですね!
清水:自民党発の政策なんですよ。次の年にまとめたのが、看護師の人材確保の法案作りへの提言でした。ちょうど厚生省でもこれからの高齢社会のことも考えて介護の人たちと一緒に法律を作らなければということになって、1992年に「看護師等の人材確保の促進に関する法律」を作りました。この法律は全部の党が賛成してくれたので、重要法案として代表質問もさせてもらいました。その法律は、とにかく、各省が看護師を確保するための基本指針を作らなければならないという内容のものでした。それがきっかけで、看護の大学教育化が広がり、今や全国の大学の3分の1に看護課程が置かれるようになりました。看護師はこれから自律していかなければいけません。患者さんにも「看護師さん」ではなく、名前で呼ばれる責任ある仕事をしていく必要があります。

今の師長は優秀!〜自信を持って活躍してほしい

濱田:本当にそのとおりですね。医師のお手伝いではなく、自律して医師とも対等に看護の力を発揮していく必要がありますよね。現役の師長さんたちへのアドバイスをお願いできますか?
清水:そうですね、私が新人看護師の時に出会った婦長さんのような、学ぶことを支えてくれる師長でいてほしいですね。新人さんは不安で仕方がない人が多いと思います。そういう新人たちが安心して育っていけるような環境を作ってほしいですね。
濱田:今の看護師長さんたちは忙しくて疲れているし、自信のない方も多いように思いますが…。
清水:でも、私が師長をしていたころよりも優秀な人が多いじゃないですか!文章も書類も上手に作るし、意見をきちんと言えるし。コンプレックスは持たなくていいから、現場でやっていることに自信を持って活躍してほしいですよ!
濱田:では、最後に清水先生も会員であるフリージア・ナースの会での活動について、ご意見をいただけますか?
清水:生涯看護職としてのアイデンティティを持って、活躍し続けてほしいと思っています。元気な人多いですしね!活動していると元気になりますよ。今は年金も保障されているし。社会に対してエネルギーを還元していかなくちゃいけませんね。

インタビューを終えて

セカンドキャリアを迎えた皆さんへのインタビューは今回が最後となります。最終回である次回、本連載を振り返りつつセカンドキャリアについてまとめさせていただきます。最後を締めくくってくださったのは清水嘉与子先生でした。今の看護師の社会的地位を築いてくあり、清水先生のお話しを聞きながら、看護師はこれまで以上に自律して医療チームの中で医師と対等に仕事をしていけるように、自信を持って看護力を発揮していく必要があると強く感じました。

第6回
この記事は日総研出版のナースマネジャーに掲載したものです。日総研さんのご協力のもと、ホームページへの掲載が実現しました。

2017年01月13日 [会員インタビュー]
NPO法人看護職キャリアサポート 濱田安岐子
インタビューを受けて頂いた方 板谷美智子さん
(現公益社団法人広島県看護協会長、元・広島市社会局理事)

広島県出身。1966年国立京都病院附属高等看護学校卒業、1967年広島県立広島看護専門学校公衆衛生看護学科卒業。同年4月広島市東保健所保健師として就職。中保健センター長、社会局理事など38年間保健衛生行政に従事。2005年3月広島市退職。2006年6月公益社団法人広島県看護協会副会長就任。2007年6月同協会会長に就任し、現在に至る。

第5回
保健師の自律した活動を知り「保健師になろう!」と決意

濱田:板谷さんはなぜ、保健師というキャリア選択をされたのですか?
板谷美智子さん(以下、板谷・敬称略):私が高校3年生の冬に叔父が入院し、お見舞いに行った時に出会った看護師さんの白衣姿がとってもかっこよく見えて、京都の看護学校を受験したんです。大学受験の前に合格発表があり、ナイチンゲールも知りませんでしたがそのまま入学しました。保健師になったのは看護学生の時の保健所実習で「保健師は自分でさまざまなデータから地区診断をして、業務計画を立てて家庭訪問等を実施している」と聞き、「凄い!」と思ったからです。
その時代、看護師の仕事は医師の診療の補助という考えが強かったのですが、私は自分が納得できないと実行できないという性分だったので、保健師が自分で考えて地区診断、問題解決という自律した活動をしているのを見て「よし、保健師になろう」と。そして、思い立ったらすぐ行動、保健師になり広島市に就職しました。
濱田:では、看護師としての臨床経験はなく、保健師として地域でご活躍されていたのですね。
板谷:そうです。でも、今の私があるのは看護学校のおかげです。学生時代は大変でしたが、楽しくもあり、私の看護の原点が築かれたと言っても過言ではありません。ちょうど60年安保の時代であり学生運動が活発で、全国の看護学校もその真っただ中にありました。その中心的役割を担っていたのが京都の看護学生で、全国で実習ボイコット運動などもありました。教務主任からも「学生運動が激しいので、身の安全のために1人で外出しないように」と言われましたよ。しっかり外出しましたけど。
その時私は国立京都病院附属看護学校の学生で、自治会の執行委員長でしたが、「看護師になるためにどうしても実習は必要である。厳しい環境でも学生が看護師のお手伝いさせられているとか、搾取されているとは考えられず、実習を大事にしたいのでボイコットはしない」という方向性を打ち出しました。今考えても、当時の国立京都病院では看護の自律を目指し、看護師の皆さんが凄く輝いていました。偶然入学した看護学校がとてもよいところだったんです、私の運の強さですかね(笑)。
濱田:大変な時代だったのですね。
板谷:そうですね。社会が変わる、世の中が動いているエネルギーが実感でき面白かったです。

保健師としての役割を果たすため、行政の中でポストを獲得

濱田:では、保健師時代に一番力を発揮したのは、どういう時でしたか?
板谷:やっぱり、広島市役所(本庁)に行った時かな。市民の健康課題解決に対し行政の果たす役割を仕事の上で体験でき、政策立案から予算の獲得、人の確保まで目からうろこでした。それまでどれだけの時間を無駄にしたことかと。
濱田:初めての保健所実習で体験した感動がつながっているのですね。
板谷:そうですね。しかし一方で、学生の時保健師教育において行政の役割をきちんと学べなかったことをとても残念に思いました。「保健師は地域住民と共に」と錦の御旗のように言われますが、行政の仕事は地域住民の健康生活と安全を守るための仕事でしょう?ということは、保健師の地域住民に対する保健指導は個から線、そして面へと健康課題解決のために施策化を進めるということです。つまり、施策のための制度設計や予算、人事を進めることのできる本庁の仕事ができなければ、保健師としての役割を果たせないということになります。
もちろん、地域で住民と共に事業を進めることは大切ですが、権限と責任の伴う管理職にならないと事業化もできず予算も取れない。私は保健師としての立場や権利を守るために、労働組合にも入り活動もしました。しかし、自分の考える保健師活動のためには、兵隊でなく司令官として、本丸本庁の中でポストを獲得する必要であると考えるようになりました。
濱田:ポストってどうやって獲得するものなのですか?
板谷:私たち広島市の保健師は、とにかく本庁の行政事務ができるポストに保健師を配置してほしいと言い続けました。そして、本庁に配属された保健師は頑張って係長になり、課長補佐になり、課長になっていきました。結果的には組合運動ではなく、実績を積み上げながらポストを得ていったんです。そうしたら、ポストが上がるたびにちゃんとした仕事をするから、「保健師は力がある」という評価を受けられたのです。
住民の健康課題の解決には施策化が必要です。しかし、残念なことに学校ではそういうことは具体的に教育されませんでした。ですから、昔は住民のために草の根運動的な保健指導を行うしかありませんでした。ですが、1軒1軒家庭訪問だけをしていても、住民の健康課題の解決は困難で、施策化し予算をつけ、人をつけなければ、効果的なことはできないんですよ。だからこそ、保健師が行政で管理職になる必要があったのです。ただ、私が就職したころは、行政で保健師が管理職になることは夢のまた夢でした。そのため行政組織の中で下から順にポストを獲得していかなければなりませんでした。
濱田:そうか、行政の中で職位が上がっていかなければ、本当の意味で住民の健康を守るために保健師としてやりたいことはできないということですね。
板谷:そうです。そしてそれは、保健師が保健所で働いて、仲間うちだけで通じる言葉で仕事をする限り不可能だと思います。保健師が行政で保健医療の専門家として行政事務を学べば、鬼に金棒。生き生きと楽しく仕事ができますよ。私は精神保健福祉センターで課長になり、次に保健センター長として部長職を務めました。その後、ちょうど女性登用が叫ばれはじめ、広島市では女性で初めて局長級である理事に就任しました。

看護管理者が変われば看護は変わる

濱田:凄いですね!ご自分では職位が上がっていったことをどう思っていらっしゃいますか?
板谷:私は管理職が向いていたと思います。自分で動くよりも人を活用する方が上手だから(笑)。本庁に行ってビックリしたのは、優秀な人がたくさんいること。優秀な人っていうのは不思議に皆さん人柄がよく、助けてくれますね。私がやりたいと思ったことを実現するためのウルトラ技を提案してくれることもありました。
また、新規事業は予算と人が伴わないとできませんが、予算確保のためには明確な根拠が必要で、税金を納得のいく予算として活用する必要があります。そういうことを、どのような考え方で予算に挙げていくのかについて助けてくれる人が周りにいたんです。仕事はハードでしたが、優秀な事務職の人と一緒に働く醍醐味を味わいました。大きな声で言えませんが、今でもこの時の人脈は活用していて、看護協会長のシンクタンクとして活躍いただいています(笑)。
濱田:看護師も同じですね。管理職になっていろいろなことを実現しなければいけませんから。
板谷:そうです。私が看護協会の会長になって言い続けていることは「看護管理者が変われば看護は変わる」です。看護協会は専門職としての生涯教育研修には力を入れていますが、組織人材の育成は遅れていると考えます。織物も経糸と横糸が同じ力で織り上げられてよい織物となります。看護職の専門性、組織人材のバランスがきっちり取れて初めて目指す看護へと向かいます。看護協会が実施しているいろいろな研修の結果として、現場が変らなければ何の意味もありません。
医療現場の管理職は、看護部長も看護師長も疲弊していますよね。看護協会は看護管理者が活躍するために支援を強化し、組織人材の育成に力を入れています。看護管理者研究会、看護副部長研究会、看護師長研究会を実施し、また新任看護管理者交流会、新任看護師長研究会はシリーズで開催し、フォローアップをして同期の仲間づくりからネットワーク化を目指しています。その中から、看護の課題解決へ向けて自分たちで自律して行動できる人材が誕生することを期待しています。
濱田:ファースト、セカンド、サードの管理研修はありますが、実際に継続的なフォローアップをしながら研修を進めるというのは、効果がありそうですね。リーダーシップを発揮していくための力になりますよね。
板谷:そうなのです。始めてみたら、看護部長は多くの新任看護師長を研修に参加させています。
濱田:効果があったのでしょうね!相談する相手がいるというのは、よいものですよね。
板谷:そうです。それと、相談する相手の選び方も大事ですね。
濱田:そうですよね。一緒に学んだ相手に相談できると、進む方向性が確認できますよね。
それでは、これから先を見据えて、現役の看護管理者、そして、これから看護管理者を担っていく方達にアドバイスをお願いできますか?

看護管理者は外交官であれ。そして、自立した看護師の育成を

板谷:私が看護管理者に言いたいのは「外交官であれ」ということですね。看護部のトップなのだから、他機関との連携や他部門との調整、交渉も必要。今後はより一層、地域との顔の見える関係を築く力が求められます。
それと、人材育成をしっかりすることです。人を育てなければ看護は変わりません。年功序列の発想はもうやめて、その人その人の適性を見極めて役割を与えていくこと。看護管理者として、歳の順ではなく、人を見る目を養い、みんなが納得できる説明をしなければならない。なぜ、その人はその役割を与えられているのかということを説明する必要があるのです。
濱田:人を見ると言っても、一人ひとりのことは見えませんよね? スタッフはいっぱいいますし。
板谷:それがですね、組織が大きくなればなるほど、人は見えるものなのです。いろいろな人から情報が得られるようになるから偏りません。もちろん人から情報を得ると言っても、看護管理者は自分の判断基準を明確に持ち、きちんと責任を取ることが大切ですね。その行動を部下はしっかり見ていますよ。
そして何よりも、自分の看護観をハッキリ語れることが大事です。これはいつも看護管理者に話すことですが、スタッフ全員に「私はこういう看護をしたい」と伝えるべきです。看護を語れないのに看護管理者になってもらっては困ります。だって、それがその組織の看護理念になるのですからね。
濱田:看護管理者の看護観が看護理念なのですね。
板谷:そうです。そして、人材育成では看護協会の研修を生かしてほしい。院内の教育プログラムに看護協会の研修を組み合わせて、どういう看護部にしたいのかを考えながら、認定看護師などの人材も育成する。そうすることで、看護理念が実現していくのです。看護理念の実現に向けて、計画的に人材を育成していくことができる看護管理者が育ってほしいと思います。貴重な研修に参加するのですから、それを生かせる人を研修に参加させてほしい。誰かの指示を待つ人ではなく、自律して判断できる看護師を育ててほしいのです。

看護協会を会員にとっての「母港」にしたい

濱田:それでは、県の職能団体の長としての一番重要な役割は何であると考えていますか?
板谷:いつも、タイムリーに看護現場で何が起こっているか情報収集・分析をして、課題解決のため職能団体として何をすべきかを見極め、行動すること。また、看護行政の主務官庁である県行政との緊密な連携が重要と考えます。今では、看護協会の会長をするために行政に勤めていたように思いますよ。県との交渉をする時にその経験がとても役立っているのです。
県が出来ることは何か、そして、誰と交渉すればいいのかが分かり、県における施策化を効果的に進められますね。実際に、新人看護職員研修も5事業全てが予算化され、県と一緒に進めることが出来たのです。私の看護協会会長としての夢は、看護協会が会員にとっての母港となることですね。いつでもエネルギーが充填でき、看護への誇りと喜びが語り合える場であってほしいですね。
濱田:それでは最後に、板谷さんはフリージア・ナースの会にご入会いただいたわけですが、この会で何をしたいと思っていますか?
板谷:大島さん(本誌Vol.16、No.6参照)と一緒に、何か楽しいことをしたいかな(笑)

インタビューを終えて

 今回は、板谷美智子さんにインタビューさせていただきました。板谷さんの現役の看護職に対するお話から、保健師も看護職であることを実感しました。また、保健師の活動は地域住民の保健という公的なものであり、施策として進める必要があるために、保健師が行政の中で管理職として力を発揮する必要があるのだということも理解できました。
そして、それは看護師も同じであり、自分がしたい看護を実現するためには管理職になる必要がある。いずれ、看護師が病院長になることを本気で望んだとしたら、実現できる時代が来るのかもしれない。患者に必要な医療を看護の視点から実現できるのではないかという夢を描いたインタビューでした。

この記事は日総研出版のナースマネジャーに掲載したものです。日総研さんのご協力のもと、ホームページへの掲載が実現しました。


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